モノが売れないと言われる時代に消費を研究している人のブログ

広告会社で、消費について研究するサラリーマン研究員のブログです。専門は駅の消費です。

書籍 東浩紀/大山顕 『ショッピングモールから考える』から考える その1

「ゲンロン」(という東京・五反田にあるイベントスペース)で行われている対談が元になった書籍である。

genron-cafe.jp

 

対談が元だからライトな本なのだが、大変、様々な示唆にあふれた内容だった。(面白くて思わず、2度読みしてしまいましたよ!)(そして感想+αのこのブログも相当長くなってしまいました!)

 

まず、現代の「コミュニティ」について。

本書では、商店街の「顔が見える関係」が高齢者や障碍者にやさしいと言われる一方で、実は「子育て世代やニートにはキツい環境なのではないか」と指摘されている。私もこれにはまったく同意である。たとえば、イギリスではサードプレイスたるパブで仲間とコミュニケーションをとったりするようだが、日本ではお酒が入ったとしても、なかなか他人とコミュニケーションをとったりしない。というか、正確に言うと言語的なコミュニケーションをとらない。本書でも「われわれ日本人は、知らないひとといきなりしゃべるプロトコルというものを訓練されてない。」とあり、震災時に帰宅する長い道中ですら会話がなかったそうだ。ただし、私(職業は”研究者”)の研究から、会話するだけがコミュニケーションではないし、顔見知りだけがコミュニティとして捉えられているわけでは無いことがわかっている。実は、自分と似た者が近くに居るという、その状況だけでも「コミュニケーション」になるし「コミュニティ」になるのだ。どういうことか、OLを例にすると… OLは駅ビルのトイレやカフェに行くと、他のOL達を見て「私も貴女みたいになりたい」とか「あの人もカフェで読書して、私と同じね」といった声にならないコミュニケーションをし、同じような感性の人とコミュニティを形成しているようなのだ。おそらく、サラリーマンにはサラリーマンの、秋葉原のオタクにはオタクの、サードウェーブ系にはサードウェーブ系の、声にならないコミュニケーションと見えないコミュニティがそれぞれにあるのだ。「あぁ見知らぬあの人も頑張っている、私も頑張ろう」とか「私と似たような人が多いからかなんだか落ち着くわ~」という状態が、私たちシャイな日本人らしいコミュニティの一様相だと思う。

 

次に「開放性」について。

これも、ショッピングモール vs 商店街(または公園?)で。果たして商店街だけが公共的に開かれているのか?という議論なのだが… これは、大変に難しい問題だ。私達も最近「多様性」をテーマに識者等への取材&考察を行ったのだが、誰にでも開かれた場(行ける場)が誰にでも行きやすい場になっているかというと、そうでもなかったりするし。誰でも集まれる場が誰にでも居心地のいい場になっているかというと、そうでもない。みんなに開く、というのは相当難しい。本書でも「若者たちが昼間から酒を飲んで語りあっている、そういうオープンなところが高円寺の魅力だと言う。でもそれって、本当はかなり威圧的ですよね。ひげ面の三、四〇代の男たちが日本酒を片手に安倍政権を批判しているのが、果たしてオープンと言えるのか(笑)」「だれも管理しておらずホームレスも入れるようなアナーキーな空間のどちらが本当に開放的なのか、あるいはだれにとって開放的なのかという問題。」とある通り。誰かにとって開かれた場は誰かにとって居づらかったりする… OPEN Aの馬場さんも『公共空間のリノベーション』で「子どもを遊ばせるために近所の児童公園に行くと、そのベンチはホームレスに占拠され、隣の水飲み場では体を洗っている。僕ら家族は居場所がなく、占有者になんとなく気を遣いながら落ち着かない休日を過ごす。」と言っている。(余談ですが、1990年前半頃、私が小学生だったとき、公園は子供もホームレスも共存していました。隣のブランコに乗ってたりして。お菓子をくれたりして。「人にあげる前に、オジサン食べなよ!」ってツッコみましたが・笑 1度会話できると何のことはない、自然と共存できる場合もあるようです。) ショッピングモールは自動車もなければ、「悪い人」もいないし、エレベーター完備で通路も広く、小さい子連れの方が子どもを安心して遊ばせられる。ショッピングモールは、子連れ家族にとっては開かれた場という指摘はもっともなのである。(逆に、ファミリーで溢れるショッピングモールのフードコートで食事をする私はよくソワソワします。) 上記の「コミュニティ」と、「開放性」は密接に関わっている。誰かの「コミュニティ」をつくり「開放」したいなら、誰かに多少でも目をつぶってもらうことになるのかもしれない。単体の施設や場が、「ゲーテッドコミュニティのような伽藍の方に向かうのか、雑多で開かれたバザールの方に向かうのか」は本当に悩ましい。(ちなみに私どもの考察では、”雑多”を選ぶ場合には、最低限のルールを決めつつ、時間をかけて対話していく他ないよね~という結論に至りました。当たり前じゃん!普通じゃん!と言われそうですが…そうなんです…当たり前をやるしかなさそうなのです。)

 

3つ目に、「普遍性」について。

ショッピングモールは、世界中どこにいっても、似たような構造をしている。なので「世界中どんなモールに行っても、なんとなくトイレの位置がわかる」。そして、ドバイのモールは日本やシンガポールのモールと「入っているブランドは同じだし、内装のコンセプトも同じ。宗教や政治体制の違いなどまったく存在しないかのよう」という。考えてみると、キリスト教のアメリカと、仏教や神道の日本と、イスラム教のドバイで、ショッピングモールはどこもほぼ同じ、というのは指摘の通りものすごいことだと思う。異文化なのに、消費や体験の部分は共通してしまう。(大げさかつ呑気なことを言ってしまうと、ショッピングモールは世界平和につながる、ということなんでしょうか…)

 

ここまでまとめると、一般的に、いわゆる昔ながらの商店街が「善」で、ショッピングモールが「悪」という言われ方がされがちだったが、そうした一様な見方で良いのか?という投げかけであった。本書では、「コミュニティ / 開放性 / 普遍性」の新しい在り方、多様な在り方が考えられており、何らかの施設づくり、場づくりに携わる人が是非考えるべき視点が与えられていたと思う。(難しく書いてしまいましたが、行政の人とか、ショッピングセンター他の施設を開発している人とかが読んで、ヒントにされるとすごく良いと思います。)(あと、私の研究領域とまさに被っていたので、本当に面白く読みました。うん。)

 

あまりに長くなってきたので、ここまでを「その1」としてみたいと思います。(なんて…続きを誰に期待されているわけでも無いと思いますので、断る必要もないと思うのですが…一応…)