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ゲンロンカフェ「大山顕のすべてーー『立体交差』刊行記念&『スマホの写真論』単行本化カウントダウン」メモ その1

ゲンロンカフェの「大山顕のすべてーー『立体交差』刊行記念&『スマホの写真論』単行本化カウントダウン」についてのメモ。(2019/5/24 修正) genron-cafe.jp

 

◆作家性について

ネット以前/以後の写真家は大きく異なる。大山顕氏をはじめ、ネット以後の写真家はレンポジ的・素材的な性質がある。たとえば、『死ぬまでに行きたい!世界の絶景』写真集は、写真家がつくったものではなく、レンポジ画像を集めたもの。誰か特定の一人が作ったのではなく、匿名の多数がつくったもの。

すると、作家性はどこにあるのか?という疑問が出てくる。

大山顕氏の写真集は、大山氏ではなくデザイナーがトリミングしてレイアウトしている。であれば、大山氏に作家性があるというより、デザイナーにある。もっというと、写真集を企画した編集者に作家性があるともとれる。

さらに現代は、シーンを撮影するのではなく、RICOHのシータやGo Proなどをはじめとし、シークエンス・全範囲を撮影できる。トリミングのない撮影になっている。

とすると、実は、区切る・切り取ることにクリエイティビティがあるといえる。これは、歴史とも共通している。歴史は連綿と続いているが「明治維新」といった区切りを与えられる。その時代に生きていれば、維新的イベント(事件)はなんとなく起き続けていたことで、「ここが明治維新の瞬間だ」とは言えない。だが、引いてみると区切りが発見できる。さらに、これは都市とも共通する。都市も連続しているが、あるスケールから見れば、際が見える。

私が思うに、大山顕氏と写真集との関係は、博物館とキュレーターの関係なのではないか。大山氏が博物館のように写真というものを収集し、写真集が写真たちをキュレーションする。キュレーターは意味を作り出す。一方の大山氏は記録者であり、言ってみると、考現学今和次郎氏のような存在なのではないか。

また、この話は、アルゴリズムによるデザインと共通している。アルゴリズムデザインでは、形が自動で無限に生成されるので、人が、どれを採用するかということに作家性がある。あるいは、アルゴリズムをつくることに作家性があるとも考えられるから、大山顕氏の写真を撮影する仕組みに作家性があるともいえるのかもしれない。

トークの中でもちらっと触れられていたが、こうして考えてくると、際限なく続くものを区切って採用する基準は、どうやって決められるかということが気になる。つまり、何をもって「これにしよう」「これがいい」と決めるのか? すると「いい」とは何か?という問題になる。それがキュレーターの能力ということなんだろうけども。

この「作家性」については、AIやアルゴリズムとの付き合い方についての示唆でもあり、現代の重大な視点を貰えたように思う。

 

◆「同じ写真」について

人は写真を撮るが、ほとんどは、すでに誰かが撮影しており、しかも入手可能で、写真の画自体に意味がなくなっている。現在では、驚くほど、同じ経験にコストが支払われている。インスタには同じような写真ばかりがアップされている。

これは、写真の画自体に意味があるのではなく、写真を撮るという行為に意味があるのではないか。撮る行為を通して「そこにいる」という立ち会う感覚や、「タイムスタンプ」を行っているのではないか。写真(の画)という目的ではなく、撮るまでのプロセスに価値がある。

私が思うに、撮るという身体感覚があると、記憶が強化されるから、撮るという行動に意味があるのではないか。また、結婚式の撮影は、結婚式へ参加している・お祝いをしているという態度表明なのではないだろうか。もしかすると、旅行でも、撮ることが、旅をしているという感覚を強化しているのかもしれない。

 

◆都市の表現について

都市が骨格ではなく、グラフィックだったり、建築ファサードで表されるようになっている。つまり、写真的になっている。

ノーエビデンスの仮説だが、これは女性が写真を撮るようになったことが関係しているのではないか。ターミナル21のようなショッピングセンターも、インスタのようなビジュアル中心なSNSも、利用者は男性よりも女性が多い(はず)。そして、女性の空間の捉え方は構造的というより表面的だ。女性は、道を覚えるときも、方位や道の構造ではなく、街路シーンで覚える傾向がある。女性特有の「表面で捉える」という特徴が、都市表現にも表れてきているんではないか。

 

つづく